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テーマ:会津の風景(427)
カテゴリ:キリシタン
【会津の風景】 昨日、ある大学の先生から、その先生が書かれた論文が送られてきました。それに目を通して、ある意味で、非常にショックでした。それは間違いなくキリシタンの墓石であるのですが、それが思いもよらなかったところに残っているからです。小生がショックに感じるのですから、当然、あのキリシタンに関係のある墓石です。 写真が何枚も載っているのですが、キリシタンの墓石をご存知の方であれば、誰もがキリシタンの墓石であることがすぐにお判りになられるであろうと思われる墓石です。そして、その墓石が残っているということが、現在準備している論文の結論を裏付けるには十分な資料になり得ると考えられます。 江戸時代の中期以降、キリシタンは徹底的に弾圧され、厳しい監視下にあったとされて来ましたが、しかし、それはあくまでも史料上の見解であって、現実は文字で書かれた記録とはかなり異なっていたということであろうとしか考えられません。そして、檀家からキリシタンが発覚した時の、そのお寺のご住職の最高刑が死罪であるという規定からすれば、宗門人別制度に組み入れられながらも、キリシタンの信仰と習慣を保持し続けることは、それほど危険なことではなかったとも考えられます。 そして、あるところで小生が気がつかされたのですが、江戸城の内堀の内側にもキリシタンがいたことを示すモノが残っています。しかし、このモノ以外に、それが記されている史料は残っていないようですが、それがキリシタンのものであることはほぼ間違いないと考えられます。この写真は、会津のとある曹洞宗のお寺にある薬師堂で撮った写真です。このお堂の向き、そしてこのお堂の裏にある墓地に残された転切支丹本人・本人同前、あるいは転切支丹類族の墓石の数を考え、それらが現在もきれいに並べられて残されていることを理解できます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.04.12 08:10:30
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