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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の風景】 保科正之公は、振袖火事が延焼した為に焼け落ちた江戸城の天守閣を再建しようとする幕閣に反対して、その資金を江戸市中の道路の拡張と整備に当てることを提案し、それを実行させました。今で言えば、江戸のインフラ整備です。そしてその結果、多くの路が拡張され、荷車が簡単にすれ違うことができるようになり、物流が効率よく行われるようになったとされています。 つまり、保科正之公は、天守閣という建物の存在理由を問題にせず、振袖火事で焼けてしまった江戸市中のインフラ整備を最優先したということなのですが、きわめて合理的な判断だったと小生は感動しています。そして、江戸市中が繁栄するためには、上水を大量に確保しなければなりませんが、そのために玉川上水の開削をも提案されたそうです。そして、あの時代にも、中国は上水を井戸に頼っていました。 会津のキリシタンを研究してきた過程で、この二つのインフラ整備が非常に気になっていました。それは、「世界の道はローマに通じる」と言われたように、ローマ帝国は道路の整備によって発展したことは間違いありません。そして、山中から延々と上水道を開削し、「水道橋」と言われる巨大な建造物を、皆さんも中学の歴史の教科書でご覧になられたであろうかと思います。 ヨーロッパの技術が日本に入ってきたのは、かなり古い時代からです。法隆寺の金銅の柱の形状を「エンタシス」と言いますが、あの技法はギリシアのパルテノン神殿から、シルクロードを通って中国に入り、それが日本に伝わったものだと考えられてきました。道路の整備と上水の確保というインフラ整備を、何も知らないところから考え出したとは思えません。一帯どこから、こうした考え方を保科正之公がお知りになられたのか。高遠城には天守閣はありませんでした。しかし、旧高遠藩領内には、上水道兼農業用水のための堰が残っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.04.13 18:20:41
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