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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の風景】 前述の墓地の入り口付近にあった卵形墓石です。「正山智泉禅尼」と彫られていますが、この村にはお寺はありませんし、会津に尼寺は1ヶ寺もありませんでしたし、現在もありまっせん。そして、側面には「文政三辰天五月四日」と彫られています。1820年です。また、この反対側には「越後賀茂町宗」と彫られています。 会津は越後と隣り合わせです。現在の東蒲原郡阿賀町は、江戸時代には会津藩領でした。阿賀町の方々は皆さん、そのことをよくご存じですし、それを示す墓石がありました。福島県庁が福島市に建てられることが決まり、福島県庁よりも新潟県庁の方が近いという理由で新潟県に編入されたそうです。 小生が地元の方とお話しした範囲では、明治「政府」の一方的な決定だったようです。そして、会津に接している地域の方々の中には、会津の訛りが残っています。ですから、しばらく前に全国で行われた市町村の合併で、歴史が消えていく可能性が十分にあると小生は思っています。東京も、下町には文化が消えずに残っていますが、山手にはもう、江戸時代までの文化はほとんど残っていません。ただ、それも歴史だということは判るのですが、しかしその蔭で、村の名前が一方的に変えられてしまうこともありました。最近の町村合併時に江戸時代からの村名に戻されたところがありますが、未だに戻っていない村々もあります。 この卵形墓石、一体どういう女性の墓石だったのでしょうか。「宗」が「衆」の誤字であるとすれば、小生が『会津キリシタン研究II』で明らかにした、女性の遭難事故と同じようなことがあったとも思えますが、しかし、この墓石は間違いなく卵形墓石です。尼僧の墓石です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.04.15 14:53:09
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