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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の峠道】 2007年4月30日に、所長にこの景色を見せたくて出掛けた時に撮った写真です。あの日は、とある峠を下ってきました。この峠を知ったのは、国土地理院の地形図を見ていた時でした。非常に急傾斜なところに道路が造られていました。上の写真は、これから下っていくところを高いところから撮った写真です。そして、写っている道路を下っていくと、下の写真に写っているところに出ます。 江戸時代には勿論、この道はなかったであろうと思われます。しかし、この峠道があったことは間違いありません。ただ、この一帯の村々の配置を考えると、どのような人々がこの峠を越えたのかが気になります。そして、会津の資料をデータベース化したものを見ていると、非常に興味深いことが見えてきます。 そして、2009年7月30日、ある方から送られてきた写真に驚いて、小生もそれを確認しに出掛けたときに、偶然、それを建てられた方にお会いすることが出来て、お話をお伺いすることが出来ました。そして、この峠の意味が見えてきました。この峠道は主要街道ではありません。しかし、それなりに意味がある峠道でした。 こうしたことは、史料には書き残されていませんが、それぞれの村々が成立した年代を考え、保科松平家の対キリシタン政策を考えると、様々なことが見えてきました。保科松平会津藩はキリシタンを弾圧していません。弾圧どころか、隠れ続けているキリシタンを庇護していました。それは、『会津藩家世実紀』に残されているキリシタンに関する記録をデータベース化すると見えてきますし、また不思議な記録を繋ぎ合わせて、伊那高遠を巡ってみて初めて判ったことです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.01.27 08:31:01
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