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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の「子安地蔵」像】 2001年に最初に訪ねたところで、その後、気になり続けていたところがあったので、2009年7月30日にまた出掛けました。そして、とある村に建てられているお堂が気になっていたので中に入ったら、地蔵菩薩が祀られているお堂でした。そして、近くでよく見たら胸元に何か隠れていそうだったので、着衣を少しずらしたら子供を抱いていました。 しかし、このお堂のことは『新編会津風土記』(1809)に載っていません。それでいて、この村は『寛文風土記』(1666)に名前が載っています。そして、この「子安地蔵」に出会って、2001年に訪ねた時に墓地で出会った不思議なものを理解することが出来ました。 1998年以降、会津のキリシタンを研究するために多くの村々を巡ってきましたが、こうしたことの連続でした。そして、こうしたことを考えると、『会津藩家世実紀』の寛文六年廿一日にある、「此頃備前岡山ニ而仏法を被成御憎、一旦ニ僧侶を御追放寺院を破却被仰付候処、此儀を中将様被聞召、其志者結構成事ニ候得共、其被成方宜計ニ者無之候、子細当時一時ニ左様之儀いたし候得者、其本寺門跡之類彼是六ヶ敷申候故、遂ニ者不得止再興不致候而者、不叶事ニ相成候、然者無益之事ニ候間、彌其事を可遂覚悟ニ候ハゝ急迫ニ不致、或者新地或者数年無住と歟、又者寺僧不届有之候節なと、破却追放等連々ニ致候ハゝ何之故も無之、員数も次第ニ可致減少、是等宜計ニ可有之旨被仰出儀有之、」という記録を納得することが出来ました。 保科松平会津藩の対キリシタン政策は、こうしたことに裏付けられているのであろうと思われます。この時期に、寺請ではなく神道請を推奨したのは、備前岡山藩と水戸藩と会津藩でした。特に備前岡山藩では、すべてのお寺が破却され、神道請になっています。また、水戸藩でも同じようなことが行われていました。ただ、会津藩の場合、寺請けを避けて神道請にしたというよりは、会津藩士が率先して神道請になっていることが、『会津藩家世実紀』の他の個所から判ります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.01.27 15:18:55
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