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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津のとある村の「子安観音」堂】 これも会津のとある村に建てられている「子安観音」堂の中で撮った写真です。この村は間違いなく会津藩領内の村です。『新編会津風土記』がそれを示しています。こうした形の燭台で、金属製のものはこれが初めてですが、木製のものは会津の別のところにある「子安観音」堂などに残っていて、ここでもご紹介したことがあります。 この写真でもお判り頂けると思いますが、後ろに写っているのは「子安観音」像です。こんなに赤裸々にキリシタンを示しているにもかかわらず、会津ではこうして現在も残っていることを不思議に思われる方が多いかと思いますが、これが会津のキリシタンです。 これまで、何故このようなモノが残っているのかと悩み続けてきました。会津藩領内であれ、天領南山御蔵入であれ、同じことです。そして、そうした悩みが吹っ切れたのは、旧高遠藩領内を何回も巡ってみてからでした。保科正之公が高遠を離れる時に、3000人の農民を武士に取り立てて移住した理由が、伊那と山形最上と会津を考えると答えは一つしかありませんし、そう考えると、不思議なモノがすべて明らかになってきました。 中学や高校の歴史の教科書とはまったく異なったキリシタン史が会津にはあったのです。そしてその結果、非常に悲惨な情況に陥ったところもあると考えていますが、江戸時代の史料を解析しきれなくて困っているところもあります。来週、会津へ帰ったら、とある市町村史に写真があるとのことなので、それを確かめてみたいと思っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.01.29 11:36:15
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