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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【高槻城趾にある高山右近像】 2006年に京都と大阪を訪ねた時に、高槻城趾へも連れて行って下さいました。この高山右近の銅像を見上げながら、会津でキリシタンの研究を始めた頃から気になっていることを思い出していました。この高山右近は秀吉に領地をすべて没収された後、小西行長に招かれ、その後、前田利家の重臣になって15000石をい与えられてます。 そして、慶長十九年に家康によって国外追放されました。そして、フィリピンへ送られ、上陸後四十日目に病死しているというのが定説です。会津の史料をデータベース化している時に、しかし、この定説は本当だろうかと思わされる記録に出会いました。ですから、この銅像の前に立ったときに、その疑問が再燃しました。 ですから、一度フィリピンへ行ってみたいという想いは今も残っています。史料ではなく、何かモノが残っているかもしれません。何しろ、戦国時代にはダミーは当たり前のことでした。武田信玄には何人もの影武者がいたとされています。それで、信長は信玄の死を確証できるまで、甲斐を攻めていないとされています。 会津のキリシタンを研究するために作った年表のデータベースを見ながら、様々なことを「妄想」していたことがありました。あの戦国時代から江戸時代初期までの史料の多くは、江戸時代になってから書かれたものです。そもそも、小西行長や前田利家が庇護したということ自体が何を意味しているのか。信長の死は実証検分では確認されていません。明智光秀の子孫であるという家も残っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.01.31 16:06:23
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