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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【保科民部正興墓】 保科民部正興。保科正之公の養祖父・保科正直の弟に当たる人物の孫ですが、保科正之公の死後、蟄居させられるのですが、出入りする人物がいたので、会津藩領の鹿瀬組日出谷(現在は水沢)に謫居させられています。この蟄居や謫居の理由は、藩内の勢力争いだったとされているのですが、『会津藩家世実紀』を読んでいて、どうしても気になるので、一昨年の春にあの一帯を何回か訪ねてきました。(徳沢からも行けますが、徳沢から阿賀川沿いに行く路は、2011年の大洪水で危ないところがありますので、津川から回り込んだ方が安心です。) 保科家が保科郷を離れた時に、多くの保科姓の家々が保科郷を離れています。ですから、保科姓の家々は伊那市高遠町だけでもかなり多く残っていますし、そうした家々からも保科正之公と共に山形最上経由で会津に入って来ています。これも、伊那市高遠町で確かめてきました。 その中でも、この保科民部正興の曾祖父に当たる保科正勝は城代家老を勤めていましたし、その子・正近も孫の正長も、そして正長の子・保科民部正興も城代家老でした。そして、保科正之公が会津藩主になられてからなくなるまで、この保科民部正興がトラブルを起こしたという記録を『会津藩家世実紀』に見出すことは出来ません。 そして、保科民部正興が蟄居になったことが記されている部分は、『会津藩家世実紀』の他の部分と比べると、非常に歯切れの悪い内容が記されています。それが気になっていたので、あの一帯を連続して何回か訪ねたのですが、あの一帯には高遠から山形最上経由で会津に入って来た家々があります。しかも、その中には家紋が角九曜紋や丸九曜紋の家があります。そして、かなりの数の墓石を確かめてきましたが、転切支丹類族と考えられる文字や文字列が彫られている墓石が多数残っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.01.31 16:40:22
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