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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【伊那高遠の十字墓】 これは、かなり以前にここでご紹介したことがありますが、保科正之公の家老が母親のために建てた十字墓です。下の写真は、その十字墓の中に祀られている石像を左側の穴にレンズを当て、右側の穴にストロボを当てて撮った写真です。 この母親が亡くなったのは寛永七年(1630)ですが、保科正之公が山形最上へ移封されたのは寛永十三年(1636)ですから、この間にこの「供養塔とも墓とも通じるもの」(案内板より)が建てられたことになります。しかし、この時代にはまだ、宗門人別制度の施行命令は幕府から出されていません。また、一般民衆の中は墓を建てる習慣もありません。一般民衆が墓石を建てるようになったのは貞享年間以降のことであろうと、会津に残されている墓石から考えられます。 会津には「小野小町」の墓と言われている宝篋印塔が残っていますが、小野小町は平安前期の女性です。そして、会津の宝篋印塔はかなり風化していますが、『新編会津風土記』にはそれほど古いものにはみえないと記されています。あの宝篋印塔は草むらの中で雨ざらしになっていたと聞いています。しかし、女性のために宝篋印塔を建てたのだとすれば、その女性はどのような女性だったのか。非常に興味深いものがあります。 そして、この村がある一帯には、非常に興味深いものが残っていますし、個人のお宅の墓地にこれとよく似た十字墓が残っている村もあります。会津もそうですが、伊那高遠にも不思議なモノが数多く残っています。ただ、高遠藩では風土記は編纂されていないようですし、会津藩の『会津藩家世実紀』のような文書集はないようですので、詳しい歴史を知ることが出来ません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.01 21:41:40
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