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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【絵島の伊那高遠遠流】 写真は絵島が当初幽閉された場所です。そして以下は、伊那市立高遠町歴史博物館にある絵島囲い込み屋敷に建てられていた説明板に書かれている文です。 「〔文書〕 正徳四年三月十二日 [口頭での申し渡し] 正徳四年三月十二日 [伺に対する回答・一] 正徳四年三月十三日 [伺に対する回答・二] 正徳四年三月二十四日 この先頭のところで、「絵島こと、永く遠流たる筈に候あいだ」となっていますが、文の流れからすると、「絵島こと、永く遠流たる筈に候間」でこの「候間」は「そうらはば」であろうかと思われます。ですから、幕府は終身遠流を考えていたように思えます。また[伺に対する回答・一]の中で「髪を結う時、櫛道具・はさみは、渡してもよろしいか。」という質問に対して、「〇 それは差し支えない」と回答しています。通常は、自害を避けるために、刃物を渡すことはないのではないでしょうか。 そして何よりも、「絵島へ、私(藩主)が時々逢って様子を見なくてはなりませんか。」という質問に対しては、「〇 そのようなことはしなくてもよい。」という部分です。藩主が罪人に会うということは、尋常のことではありません。にもかかわらず、高遠藩は幕府にこうした質問をしています。 この絵島の戒名「信敬院妙立日如大姉」の下に、「霊」の速記文字が彫られていました。これも気になります。この案内板には「山国高遠で二十八年の幽閉生活に耐え、日蓮宗に帰依し、ひたすら御仏の懐に抱かれるような信仰の毎日であったが、寛保元年(一七四一)、病のため波乱に富んだ六十一年の生涯を閉じた。」と記されていますが、絵島の墓が蓮華寺にあることは事実ですが、絵島が高遠で日蓮宗を選んだとは考えられません。少なくとも、彼女は幽閉されている身分でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.03 12:50:48
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