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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【高遠城趾の不思議な石造物】 この写真は、初めて高遠城趾を訪ねた時に撮った写真です。上の「手水鉢」は本丸にありました。下の不思議な水槽は南曲輪か二之丸の南側にあったと記憶しています。どちらも水抜き穴が空けられています。ここで何回も書きましたが、本来の手水鉢に水抜き穴はありません。水盤の部分に流水を流し込み、比重が1未満のものはあふれ出る水が外側に流し出します。そして、比重が1以上のものは、そこに溜まります。 ですから上の写真に写っている石造物は「手水鉢」と括弧付きで書きました。そして、下の水槽は実に不思議な水槽なのですが、同じ形の、同じくらいの大きさの石製の水槽が、保科松平家に関わりのある場所に残っています。それは、ここでもご紹介したことがありますし、会津の方々の中にはそれを見たことがある方もいらっしゃるだろうと思います。(鶴ヶ城ではありません) 小生があの不思議な石造物を最初に見たのはそれほど以前のことではありません。会津のキリシタンを研究し始めてからのことですから、当然のこととして気になっていました。この水槽のような石造物がどのような使われ方をしたのでしょうか。湯船とも思えません。この大きさでは、大人はまったく無理です。 高遠が伊那谷のキリシタンの拠点だったことを考えると、答えは一つしかないだろうと思います。キリシタンの拠点であったということは、そこで毎日御ミサが捧げられ、時として洗礼式が行われたのであろうと考えられます。そして、幕府が何故内藤氏に絵島を預けたのかを考えると、高遠がキリシタンの拠点であったことを幕府は知っていたとも考えることが出来ます。絵島の遠流は、内藤家を試すためだったと考えると、幕府に対する高遠藩の質問がよく理解できます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.02 15:32:29
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