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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【高遠と会津若松】 保科正之公は何故、高遠を離れる時に3000人の農民を武士に取り立てて、ご自分に同道させたのでしょうか。会津にはこのことに関することが記されている史料はありません。そして、山形最上からも同じ人々を会津に同道させていらっしゃいます。 ただ、『新編会津風土記』に山形最上からの移住伝承が一ヶ所だけ記されているところがあります。そこには、その家がどういう姓の家かも記されているのですが、その村には現在のその姓のお宅が残っています。それを確かめるために、その村の墓地を歩いて来たことがありました。 ここをお読み下さっている方々の中には、もうお気付きの方が多いだろうと思います。「高遠三万石からの移動では、家臣の数が少ないので見てくれが悪いから、数を増やすために農民を武士に取り立てて移動したのだ」ということを会津以外のところで耳にしたことがありますが、会津の史料に残っている保科正之公の政策を考えると、200%あり得ないと小生は考えています。 保科正之公の政策は近代合理主義的なものであったことは、『会津藩家世実紀』を読めば判ることですし、江戸城の天守閣を再建する費用を、江戸の町の基盤整備に使わせ、玉川上水を開削することを提案されています。そして、あの玉川上水は戦後も使われていました。そして藩士が多いので、藩士の生活が苦しくなった時に、藩士を減らしたらどうかという意見に対して、数が多い藩士がいるから皆が飢えなくて済むのだとおっしゃったという記録が『会津藩家世実紀』に残っています。ですから、他藩に比べると重臣の禄高はそれほど高くありませんでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.03 20:37:05
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