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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【高遠城趾 III 】 上と中の写真は、高遠城趾の空堀の底で撮った写真です。高遠城趾の空堀へ下りる路が付けられているので、歩いて下りることが出来ます。この空堀の土手を歩いて上がることは不可能です。上から見ると崖に見えます。丁度、猪苗代の亀ヶ城の南西面にある本丸の土手のような傾斜です。 そして、下の写真は本丸から西高遠方向を撮った写真です。8月の末でしたから、こうした樹木の隙間を見付けるのが少し大変でした。高遠を訪ねて、このお城からの風景をご覧になるには、新緑の頃の初期が一番かもしれません。 保科正之公は元和三年(1617)以降は、この高遠城で成長されました。数え年七歳の時からです。そして、寛永八年(1631)に養父・保科正光の跡を継いで高遠藩主になられ、保科正之を名乗られました。この間、保科正之公は城内でお静の方と過ごされたのですが、保科正光は日に何回も保科正之公に会いに行かれていたと言われています。 ですから、この高遠の歴史や保科家の歴史を保科正之公はかなり正確に知ることが出来ていらっしゃったと思われます。そして、当然のこととして、城の周辺を歩いていらっしゃったと考えられますから、この高遠城がどのような城であるかも、そしてそこでどのような戦闘が繰り広げられたのかも、ご存じであったであろうと思われますし、保科正光が保科正之公にキリシタンに関する話しをしなかったとは到底考えられません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.04 10:40:47
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