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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【伊那市の城跡】 伊那市街地からそれほど離れていないところに春日城趾があります。戦国時代に築城された城ですが、堀はすべて空堀です。去年の5月に伊那高遠を訪ねた時に、時間を作って出掛けましたが、この空堀をみて気が付きました。やはり、伊那谷では水が貴重だったのだと‥‥‥ 城を築き、領地を治めるためには水がなければなりません。伊那谷には天竜川がありますが、伊那谷の東側には南アルプスが、西側には中央アルプスがあります。どちらも岩山の高山です。保水能力に限界があります。雪は降りますが、しかし、それが解け出すときには天竜川も三峰川も暴れ川と化します。 そして、高遠城もこの春日城もそうした岩盤の上に建てられています。ですから、堀を彫っても十分な水を確保できなかったのであろうと考えられます。高遠城趾の本丸と三峰川の水面には50m近い標高差があります。春日城も同じです。春日城の本丸と天竜川の水面にはやはり50m位の標高差があります。そして、春日城の西側には中央アルプスの前衛の山が聳えています。 保科正之公は、高遠に行かれてから、保科正光から様々なことを聞かされていたのであろうと思われます。当然、その中には米の生産性を上げるためには堰が必要だということがあったであろうと思われます。同時に、生活用水も確保しなければなりません。その為に、上水のための堰を造り、その水を使って稲を育てるという発想をすでに高遠にいらっしゃった時に身につけていたでしょう。それが、会津でも大いに発揮されています。飯田堰と呼ばれている上水道兼農業用水用の長大な堰は、保科正之公が亡くなられてすぐに、当時南山御蔵入の代官だった飯田兵左衛門によって開削されています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.05 20:45:56
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