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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【キリシタン殉教の地】 土津神社の前に立って、土津神社に向かって右方向に行く道があります。そこを30m程行くと右奥に墓地が見えます。そこから、5m程行くと「キリシタン殉難の地」と書かれた案内柱があって、沢を下っていく路があります。その道を30mほど下るとこの場所に出ることが出来ます。 真ん中の写真に写っている案内板には、岡越後守四郎右衛門左内が猪苗代の城代だったのは、蒲生氏郷が会津の領主だったと記されていますが、蒲生氏郷が亡くなったのは文禄四年(1595)で、岡越後守四郎右衛門左内が猪苗代の城代になったのは、慶長十四年(1609)にことです。この時の会津藩主は蒲生秀行でした。そして、<猪苗代の大殉教>が起こったのは元和八年(1622)のことで、岡越後守四郎右衛門左内は、この時まで猪苗代の城代でした。 そして、多くのキリシタンが処刑されたのですが、それはこの場所ではなく、ここから少し離れたところにあった「成就院」でした。この成就院には非常に興味深い文書が残っていたようで、そこに記されていた内容は非常に興味深いです。関心のある方は『新編会津風土記』の猪苗代のところにその文書が載っていますから、是非ご一読下さい。ただ、「大殉教」と言われ、川が血で真っ赤になったという伝承が残っていますが、この時期に猪苗代の村々で、廃村になった村を『新編会津風土記』で確認することが出来ません。 おそらく、処刑されたのは、猪苗代の亀ヶ城の外堀の内側に住んでいた武士身分の人々であろうと考えられます。もう30年ほど前の頃ですが、それを知りたくて、あの成就院のところを何回か見に行ったことがありました。しかし、既に住宅地や商業地になっていて、成就院の痕跡を見付けることは出来ませんでした。ただ、猪苗代城の領地には、キリシタンの痕跡が多数残っていますし、小生は見たことはないのですが、「キリシタン」というバス停が、猪苗代の亀ヶ城から少し離れたところにあったそうです。それを来たことがあるという方からお話をお伺いしました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.07 16:26:17
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