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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【守屋神社】 上の守屋神社と真ん中の守屋神社は、会津にあります。そして、下の「物部守屋神社」という扁額が一之鳥居に掲げられている森や神社は伊那高遠にあります。会津の守屋神社は、伊那高遠の守屋神社が会津にも建てられたということであろうと思われます。 そして、上の守屋神社と真ん中の守屋神社は、道が判っていれば車で5分もかからないであろうとお思われる距離にあります。この守屋は氏にもなっていて、守屋氏の発祥の地を示す石碑が、山梨県北東部にあります。それを見つけたのは偶然でした。あるところを訪ねたら、その場所の一番高いところに建てられていました。 あの場所のことは今でも気になっていて、入り口付近に棕櫚の木が生えていました。その種路の木を撮った写真はここでご紹介したことがあります。甲斐は武田信玄がいたところだから、キリシタンがいたはずはないとはお考えにならないで下さい。武田信玄の重臣の一人が穴山梅雪で、妻は見性院です。ただ、この見性院も不思議な女性で、穴山梅雪の死後、江戸城内に秀忠が建てた院に住んでいました。秀忠の妻のお江のすぐ上の姉・初は京極高次の妻でした。京極高次の母は京極マリアです。そして、この初は、京極高次が亡くなった後、常高院と名乗り、江戸市中に住んでいたとされています。因みに、お江は「崇源院」とされていて、ウィキペディアにも剃髪している絵が載っていますが、お江は秀忠よりも先に亡くなっています。 そしてこの守屋氏一族が武士集団でああったことは、建てられている碑に彫られた文から明らかです。穴山梅雪・見性院・崇源院・初‥‥‥お江の葬儀はかなりの数の仏僧によって盛大に行われたのですが、将軍秀忠の葬儀は行われていません。ここでも、「まさかそんなことが」という発想は、歴史研究ではタブーです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.09 14:08:57
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