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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【二本松霞ヶ城の石垣】 二本松にもキリシタンがいたことは、殉教者のための石碑が残っていることから明らかです。そして、白河にいた石垣石工が二本松へ移動していることを考えると、石垣が気になって仕方がなかったので、2012年1月17日に出かけました。 ありました。小生が気になっている石垣石と同じ形の石がこの石垣の中にもありました。白河小峰城と同じです。そして、会津鶴ヶ城の石垣にも、同じ形の石が残っています。そして、この石はキリシタンであった武士の墓石でああろうと考えられます。同じ形の墓石は九州には数多く残っていますが、会津にも同じ形の墓石が残っています。 鶴ヶ城でこの形の石が使われているところは、明らかに加藤明成の時代にきずかれた部分です。つまり、キリシタンの墓石を石垣石として用いたのであろうと考えられます。会津に残っているその形の墓石を考えると、石垣医師として用いるのに、格好の大きさであったのであろうと考えられます。ですから、「加藤明成は暴君だった」と言われているのは、このことが理由だったのかもしれません。加藤明成の時代にも、堰の開削が盛んに行われ、農業生産高の向上を目指しています。そして、記録が残っている範囲では、加藤明成が「暴君」であると言えるほどのことは、農民に対して行われていません。 加藤明成の時代に若松で殉教が起こっていますが、浦川和三郎『東北キリシタン史』(日本学術振興会、昭和32年、東京)からすると、武士身分のキリシタンの殉教であろうと考えられます。そして、加藤明成がキリシタンであった可能性も主張されています。あの時代、武士がキリシタンになったケースは多々あります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.12 08:39:17
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