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カテゴリ:キリシタン
【中通りにある「子安観音」石仏】 これも中通りのとある村にあった「子安観音」石仏です。鉄筋コンクリート製の祠に祀られています。何回もここで書いてきましたが、中国の『儀軌』という密教の儀礼や行法あるいは図像に関する規則が記されている経典には、「子安観音」はありません。マテオ・リッチが聖母マリア像を観音菩薩に「隠した」磁器製の「子安観音」像を日本に送り込んだのが、「子安観音」像の最初であろうと考えられます。 そして、この「子安観音」像には乳房があります。観音菩薩は菩薩ですから、男でも女でもありません。また、乳房があったら菩薩ではありません。こうした像は、しかし、日本中に分布していますが、キリシタンがそれだけ広がっていたということであろうと小生は考えています。日本にキリシタンが入ってきたのは16世紀半ばです。宗門人別制度の施行命令が出され、仏教寺院が死に関わるイニシエーションを行わされるようになったのは、どんなに早くても17世紀前半です。 キリシタンが破竹の勢いで日本全体に広がっていったのは、まだお寺が宗門人別制度=寺請制度=檀家制度が成立する前のことです。葬式はおろか、埋葬さえ行われていなかった時です。死者は村の周辺に放置されていましたが、キリシタンが広がって葬儀をするようになりました。ですから、「お寺は葬式仏教になってしまった」というのは誤解です。お寺は自ら「葬式仏教になった」のではなく、江戸幕府によって「葬式仏教にさせられてしまった」というのが正解です。 そして、宗門人別帳で一般民衆の管理をお寺がさせられました。ですから、お寺が火災に遭うと、僧侶は本尊よりも先に宗門人別帳を持ち出したとも言われています。そもそも、仏教はお寺の中で完結していました。布教することもありませんでした。正に「来る者拒まず、去る者追わず」だったようです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.13 07:54:05
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