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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【厳冬期の太子堂】 前述の太子堂を2011年2月12日に訪ねたのですが、写真のように雪が多くて近寄れませんでした。この太子堂の手前に堰があり、間違いなく堰のところはトンネル状になっていて、雪を踏み抜いたら危険なのでこの写真を撮っただけでした。 この冬は雪が多く、その多さを知ることが出きる写真を撮ることが出来ましたし、もう一度お会いして、ある方から色々なことをお伺いすることが出来ました。あの方もご高齢だったので、お亡くなりになられたとお伺いしました。歴史の証人がまたお一人、消えてしまいました。 しかし、あの方から色々なことをお伺いし、それを整理して考えると、様々なことが見えてきました。その一つは、高遠から山形最上経由で会津に入って来た人々の中に、やはり近代科学的知識と技術を身に付けていた集団があったのであろうと思われます。彼らは、農民としてではなく、木地作りの仕事をしていましたが、彼らがいなければ、江戸時代の会津に堰を造ることは出来なかったであろうと思われます。 伊那高遠で見たいくつもの堰を考えると、そうしたエンジニアが会津にいたからこそ、保科正之公の移住開墾政策が可能であったと思われます。そして、彼らも伊那高遠から移住したのですから、キリシタンであったのであろうと思われます。これも、残されている石仏などのモノから明らかになりました。そして、『新編会津風土記』に記されていない村々が、いつの間にか消えてしまいましたが、彼らがいつ頃までそこに留まっていたかは、残された墓石に彫られた年号から、おおよそのところは見えてきます。あの秋山郷にあった「黒駒太子」の掛け軸の写真を見て、同じようなことが会津でも行われていた可能性があると考えています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.14 09:33:27
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