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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津のキリシタン研究】 会津のキリシタンの研究をする為には、高遠へ行く必要があると考えて、2007年の夏に所長と伊那谷と松本城と小布施と千曲川沿いを巡ってきました。そして、キリシタン伝承が残っている小布施の穴観音では、会津によくある石仏や石像、あるいは十字墓に出会い、千曲川沿いでも様々なキリシタンの痕跡に出会ってきました。 保科正之公の養母は真田昌幸の娘ですが、真田家の勢力範囲にもきり真の痕跡が残っていました。ですから、嫡子がいないにもかかわらず、側室を迎えなかった保科正光がキリシタンであった可能性は限りなく高いと考えざるを得ませんでした。 だからこそ、関が原の戦いの後、保科正光は自分から望んで伊那高遠へ移封されたことも理解できました。それだけではありありません。高遠から3000人の農民が武士に取り立てられて、山形最上経由で会津に入って来ていることも知ることが出来ました。会津には、武田姓で家紋が武田菱のお宅があるのですが、高遠で手に入れてきた文献を読んで、気になったので、とある村を訪ねたのですが、そこで武田姓で家紋が武田菱の家々からも保科正之公と共に、山形最上経由で会津に入ってきていることを教えていただきました。 これで、保科松平会津藩がキリシタンに極めて寛容であったことを確認することが出来ました。保科松平会津藩では、一度だけキリシタンが捕縛されていて、『会津藩家世実記』では処刑されていることになっているのですが、とある市町村史で確認したら、その家は代々、同じ姓を名乗って継承されてきています。それが不思議だったのですが、別のことでデータベースにあることを加筆するために『新編会津風土記』を読み返していたら、上杉景勝がある人物に宛てた書状が『新編会津風土記』に残っていました。移住開墾させられただけだということに気が付いたのは、この時でした。これは『会津キリシタン研究IIに、少し詳しく記してあります。 *写真は、旧高遠藩領内にある、とある臨済宗のお寺の裏山にある お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.14 15:45:08
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