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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【鶴ヶ城の石積みの十字痕】 この十字痕に最初に気が付いたのは1998年の晩秋でした。お城のあるところへ行ったら、この十字痕が目に飛び込んできました。そして、何故これだけはっきりした十字痕がここに残っているのかが、それ以来気になっていたのですが、ここへ来る人は限られていていたと考えられますから、特別大きな問題にはならなかったのであろうと思っていました。 この十字痕はおそらく蒲生氏郷の時代に彫られたものであろうと思われます。会津にいらっしゃった方で、この十字痕をご覧になった方も、何故このような十字痕がここにあるのか、非常に訝しく思われただろうと思います。蒲生時代・再蒲生時代・加藤時代を経て、保科正之公が会津藩主になられてからずっと、ここにこの十字痕が彫られていたことになるのですから。 会津に残っていたある伝承を耳にして、小生が可能性を考えていたことが事実であることを『会津藩家世実紀』などの記録から明らかになった時、この十字痕がここに残されてきたことも納得することが出来ました。蒲生忠郷が亡くなって、蒲生家の嫡流が断絶したあと、加藤嘉明が会津藩主になったのですが、蒲生氏郷がどのような人物であったかを、加藤嘉明が知らなかったとは考えられません。 そして、加藤嘉明が亡くなって、明成が会津藩主になったのですが、この加藤明成も、弟の明利もキリシタンであった可能性が十分にあります。そして、加藤明成が改易されたあと、保科正之公が山形最上から会津へ入ってこられた時、蒲生家に仕え、加藤家に仕えた武家がそのまま保科正之公に仕えたケースが少なくありませんし、最初に、会津藩の宗門改役になった人物の一人に関しては、その人物が蒲生家の家臣であったことが『会津藩家世実紀』に記されています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.15 15:35:24
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