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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の「子安観音」石像と墓石】 前述の「子安観音」石像を別の角度から撮った写真と、このお寺の墓地にあった墓石の一基です。乳房があることがはっきり判ります。そして、墓石にある文字列の最後に「霊位」と彫られていて、「霊」が異体字です。この霊の異体字は、僧侶が修行中に速記する時に用いられた文字だとされています。 「坊主の資質だろ」とあるお寺のご住職がおっしゃっていたのですが、転切支丹類族にこうした文字を書くことが組織的に行われていたとは思えなかったので、そのことをお伺いしたらそのご住職がおっしゃいました。同じ一軒のお宅で、ほぼ同じ頃に亡くなっている方の戒名で、片方だけ「霊」が彫られていたり、霊の異体字が彫られているケースが見受けらられますが、しかしそうしたケースはそれほど多くはありませんから、小生もそう考え始めていました。 また、こうした文字や文字列が使われるのは、宗旨によって異なっているわけでもないように思えるのですが、古い墓石がすべて残っているわけではないので、統計学的に考えることも難しいだろうと思います。ただ、その村にキリシタンがいたかどうかを判断するのには、非常に重要な史料になります。ですから、こうしたデータと史料のデータベースを並べて考えると、会津藩領内でも天領南山御蔵入でも、すべての村が一度キリシタンになっていると考えられますし、そうした村々に残っているモノやコトを考えると、彼らが宗門人別制度に組み込まれながらも、隠れてキリシタンの信仰と習慣を守っていたのであろうと思えてきます。 会津のキリシタンは、中学や高校の歴史教科書に書かれていることとは、かなり異なった情況にありました。それは、残されたモノからだけでなく、会津では、「会津の正史」とさえ言われている『会津藩家世実紀』という文書集の中からも見えてきます。そして、『新編会津風土記』(1809)に記されていることを検証していくと、その奥が見えて来ますし、伊那高遠に残されているモノや伝承から、会津のキリシタン史の非常に大きな特徴の理由が見えてきます。
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Last updated
2014.02.16 09:29:51
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