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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の「子安観音」石仏】 これはのとある村の墓地にある「子安観音」石仏です。会津のキリシタンを研究されている方であれば、よくご存じの「子安観音」石仏ですが、この「子安観音」石仏は圃場整備の時に畦道に埋まっていたのが掘り出されたと言われていましたが、2006年7月4日に東京分室の帰りに、あまりに良いお天気だったので、ここへ寄ってこの「子安観音」石仏の写真を撮ってきたのですが、その時に村の方々からは別のことをお伺いしました。 あるお宅のものだそうですが、そのお宅はもうかなり以前にどこかへ引っ越されてしまったとおっしゃっていました。会津ではよく聞く話です。他のところにある「子安観音」像にも同じ伝承が伝わっています。小生は、こうした伝承も「キリシタン隠し」と呼んでいます。まず第一に、この一帯にキリシタンが広まった時に一軒だけがキリシタンになったとは到底考えられません。そして、この石仏の舟形光背の側面に「寛政五年」と彫られています。 寛政五年(1793)にこの石仏を個人が建てたとすれば、相当な財力があった家であろうと思われます。仮に肝煎の家がこの石仏を建てたとしても、この村は、『新編会津風土記』にある小名と端村の家数を加えても20数軒の家数しかありませんし、『会津鑑』の石高を『新編会津風土記』の家数で割ると、一軒当たり8石程度の石高しかありません。肝煎の家にこの石仏を建てるだけの余裕があったかどうか、大いに疑問です。 会津には、こうした田圃などから掘り出されたという石像や石仏がいくつかありますが、そうした伝承が残っている一帯にも、キリシタンの痕跡が多数残っています。ただ、この村は『文禄三年蒲生家高目録』に載っていませんから、おそらく江戸時代になってから成立した村であろうと考えられます。とすると、会津史に関するデータベースからは、移住開墾政策しか思い浮かびません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.16 11:30:30
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