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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【伊那高遠からの風景】 上の写真は伊那市高遠町の東高遠の少し高いところから、2009年5月18日に中央アルプスを撮った写真です。遠くの山並みの手前の谷に天竜川が流れています。下の写真は、2009年10月22日に杖突峠から北北東方向を撮った写真です。霧ヶ峰や北八ヶ岳が遠くに見えています。小生が「伊那谷」と呼んでいるのは、天竜川の流域一帯です。ですから、支流域も含まれていますし、両岸の山岳部も含まれています。 この伊那谷から長野県と山梨県の県境にある富士見町まで、キリシタンの痕跡が残っています。勿論、富士見町や茅野市、あるいは諏訪湖周辺は武田信玄の勢力範囲でした。しかし、この一帯にも、キリシタンのはっきりとした痕跡が残っていますし、見性院の夫である穴山梅雪がかつていたところにも、当然のこととしてキリシタンの痕跡が残っていますし、ここで「穴山家の墓」という案内板が建てられている墓域の写真をご紹介しましたが、あそこには大きな十字墓が残っています。 そして、茅野から千曲川流域までの間にも、修験道が広がっていたのですが、その修験の石碑列の中にも、不思議なモノがありました。そして、会津では不思議な修験道も庇護されていました。修験道が禁止されたのは明治以降、太平洋戦争までです。しかし、会津の修験は消えませんでした。代々、修験を継承してきた家々が現在も残っていますし、そのお宅の前に行くとそれがはっきりと判るところもあります。 この修験が代々継承されてきた出発点は、会津藩の政策です。それをはっきりと示している記録が『会津藩家世実紀』の中に残されています。そして、中には修験道を隠れ蓑にしていたキリシタンがいたと考えられるところもあるのですが、会津藩はそうしたことも知っていただろうと思えるようになりました。また、長野県はこの一帯だけでなく、全域にキリシタンの痕跡が残っています。それに気が付かされた時には、「やはりそうだったのか」と思わざるを得ませんでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.17 08:42:33
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