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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【旧高遠藩領内の堰】 これは旧高遠藩領内のとある村にあった堰を撮った写真です。左下に移っている水がゆっくりと流れて右奥に見える村の高いところへ流れていきます。そして、この水は、かつては上水道兼農業用水として用いられていたのであろうと思われます。こうした堰は、会津には数多く残っています。ほとんどは山の中の村なのですが、U字溝が入れられる前には、会津でも上水道兼農業用水として使われていました。 「上水道としてもですか?」と訝しく思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、自然の状態で流れていると、酸素が水の中に溶け込むので、それで殺菌されると、学生時代に、某理系の大学で水の研究をしているスキーの仲間から教えてもらったことがありました。山では沢の水を飲まなければならないので、少し気にしていたのですが、大丈夫だそうです。ただ、最近は森林の下草を枯らすための薬剤がヘリコプターで撒かれてしまったので、どこでも上水道としては使っていないと思います。 うらやましく思えたのは、こうした堰の水を舗装した庭に流しているお宅では、「除雪作業が楽でいいだ」とおっしゃっていましたし、「昔は、朝起きると岩魚が台所の土間で跳ねていることがあった」おっしゃっていました。天然物の岩魚ですから、味は抜群だったであろうと思います。 そして、この堰を国土地理院の地形図で調べたら、かなり上流から引いているようです。勿論、そこから上には村はありません。当然、上水道として使用が可能です。ですから、会津の堰は、高遠から山形最上経由で会津に入ってきた人々の中に、堰を作ることが出来る測量術と土木工法を身につけている人々が施工したのであろうと考えられます。会津のある一帯は、延宝年間に開削された堰によって田圃で米を作ることが出来るようになったと地元の方がおっしゃっていました。この堰を開削した時のトップであった人物は、堰が小高いところを迂回している場所に石祠があるのですが、そこに祀られています。伊那高遠から、山形最上経由で会津に入ってきた保科家の家臣です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.22 20:59:01
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