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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【伊那高遠の堰】 高頭町中心部の北側の高いところに鉾持神社という神社があります。2012年9月18日、朝イチで所長と訪ねてきました。長い階段を上がっていくと途中に堰がありました。今場所の高さからすると、蓮華寺の墓地の一番高いところを流れていた堰であろうと思い、写真を撮ってきました。そして、国土地理院の地形図で確認すると、伊那市高遠町栗巾(くりはば)で取水しているようです。 ですから、この鉾持神社のところまででもかなりの距離があります。そして現在は、鉾持桟道と呼ばれていた桟道があった部分はトンネルが掘られていて、そこから三峰川の下流域の田圃を潤しています。この部分には、内藤家が高遠藩主になってから開墾された村々があるところです。美篶という地名がある一帯です。この「美篶」は本来は「水篶」ないし「三篶」と書かれるのですが、笹の一種のスズタケという植物の名称です。これを、「ミスズタケ」と呼ぶこともあると岩波書店の『広辞苑』に載っています。 こうした堰を造ることは簡単なことではありません。上流に民家がないところにきれいな水が流れている場所を探し出して、そこから測量を始めて、水路を決定していくそうですが、こうした技術には高度な幾何学を知らなければなりません。江戸で玉川上水を開削した玉川兄弟も、そうした知識を身につけていたのであろうと考えられます。あの玉川上水は戦後も上水用の水源として使われていて、現在、東京都庁がある辺りに淀橋浄水場がありました。 太宰治が入水したところは、もう少し上流ですが、あの辺りの玉川上水は、断面が丸底フラスコを縦に切断した断面のような形をしていて、落ちると上がってくることは出来ないと小学校の高学年のときに習いました。そして、社会科見学で、玉川上水を歩いて見に行った覚えがあります。しかし、あの玉川兄弟は、何故そうした高度な幾何学を身につけていたのでしょうか。小生は、答えは一つしかないと考えています。あの玉川兄弟が玉川姓を名乗るようになったのは、玉川上水が完成してからだとされていますが、「多摩川」と「玉川」の読みが同じだったのは偶然でしょうか。それとも、彼らはそれ以前から玉川という姓だったのでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.23 08:43:43
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