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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【伊那高遠の風景】 この2枚の写真は、どちらも2012年9月18日に撮った写真です。こうした写真を撮ってきて、国土地理院の地形図を一緒に見ていると、様々なことを考えさせられます。そして、そこに村が出来た理由や、あるいはその村がある頃に、大きくなったように見えてくることもあります。ですから、会津の同じような情況にある村々も同時に思い出させられます。そして、伊那高遠の村々が、ある時代までは武装農耕集団であったと考えさせられることも少なくありません。 会津には、一つの村の家々の姓がすべて同じという村は、数えるほどしかありませんが、高遠も同じです。ほとんどすべての家の姓が同じという村は、高遠でもごくわずかしかありません。しかしそうした村に残っているものを考えると、室町時代末期には武装農耕集団であったと考えざるを得ないところもあります。 そして、『高遠町誌』を読んでいると、江戸時代中期以降に施行された宗門人別制度の具体的なあり方が見えてくるのですが、会津とは異なった基準で打あんな寺が定められていることに気が付きました。ですから、高遠で宗門人別制度が施行されたのは、内藤家が高遠藩主になってからであろうと間がえられるのです。しかも、内藤家も保科家が会津で行った転切支丹移住開墾政策を行っていたように見えることもあります。 旧高遠藩領は非常に広いところでしたが、伊那高遠に特徴的な姓のお宅が、伊那高遠からかなり離れたところにあることに気が付いたとき、転切支丹移住開墾政策を考えざるを得ませんでした。そのお宅の墓地には典型的な転切支丹類族に付けられたと思える戒名が彫られている墓石がありました。会津史に関心がおありの方であれば、どなたでもよくご存知の姓です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.23 10:39:15
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