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カテゴリ:キリシタン
【山奥の「天」年号墓石】 前述の村から少し下ったところにある墓地にあった墓石の一つです。「文化八未天」と彫られています。文化八年は1811年です。ですから、それ以前の、内藤家が高遠藩主だった時に、転切支丹移住開墾政策が行われた可能性があると考えざるを得ません。 保科家が高遠藩主だった時代には、まだ宗門人別制度の施行命令は出されていません。保科正之公が山形最上へ移封されたのは寛永十三年(1643)のことです。鳥居家が改易され、高遠が天領になったのは、元禄二年(1689)です。。しかし、高遠藩に関する文献を読んだ限りでは、鳥居家が高遠藩主だった時代に、宗門人別制度が施行されたとは考えづらいです。 ですから、元禄四年(1691)に内藤清枚(きよかず)が高遠藩主になってから、宗門人別制度が施行されたのであろうと考えられます。それまでは、伊那谷のお寺は、一般民衆の死に関わるイニシエーションに関与していないということになります。そして、この時系列を考えていくと、旧高遠藩領内でも会津と同じようなことが起こっているのかもしれないと考え始めています。 そしてこのことに関しては、東京周辺でも同じことが言えるので、宗門人別制度が施行された時に、どのようにお寺が建てられたのかということが少し見えてきました。宗門人別制度が施行されるまでは、一般民衆の中に入り込んでいた親鸞系のお寺でさえ、村の中にお寺を建てることはなかったと、とあるお寺のご住職からお伺いしました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.23 18:04:00
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