|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【奈良井宿の「庚申」碑】 木曽谷にある奈良井宿の宿坊が並んでいるところにある横道を入ったら、この石碑が建てられていました。「庚申 宿内安全」と彫られている石碑の裏面には、「萬延元庚申11月吉日 講中」と彫られていました。伊那谷だけでなく、木曽谷にも庚申の年に「庚申」碑を建てる習慣があったことをこの「庚申」碑から教えられました。 ここでもご紹介していますが、佐久平から上州へ抜ける道路脇にも、庚申の年に建てられた「庚申」碑が残っています。そして、上伊那郡の天竜川沿いの右岸にも左岸にも、同じ習慣があります。しかし、少し考えると、「庚申」が何故、「宿内安全」と結び付くのでしょうか。こうした石碑を見ていると、本来の庚申信仰とこうした庚申の年に庚申碑を建てる習慣は、同じ信仰から出たことのではないように思えます。 それにしても、驚異的なことだと小生は考えています。この奈良井宿は中山道の宿場町です。こうしたところにも、不思議な習慣があったということは、この庚申の年に「庚申」碑を建てることに対して、藩や幕府はまったく知らなかったか、関心を寄せなかったということなのでしょうか。それとも、宗門人別制度下では、こうした習慣は無視できるものとして考えていたのでしょうか。 どちらにしろ、宗門人別制度が、日本全体を仏教で統制しようと幕府は考えていなかった可能性が高いと考えられます。そして、今まで長いこと会津を巡ってきましたが、こうしたことは会津だけではなさそうです。檀那寺とは関わりなく観音菩薩石仏や石像が祀られても、藩はまったく関与していないように見えます。庚申のマツリが道教の習慣であることを、幕府が知らなかったとは考えられません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.24 15:08:37
コメント(0) | コメントを書く |