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西日本の民@ Re:会津の墓石(12/03) 年を天と記すケースや位号を略するケース…
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2014.02.24
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カテゴリ:キリシタン

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【川中島古戦場にあったブロンズ像】

 前述の八幡社にあったブロンズ像です。この二人が誰であるかをご存じない方は少ないだろうと思います。しかし、こうした戦に関する記録の多くは、江戸時代になってから書かれたもので、ここで案内して下さったボランティアガイドの方は、「『甲陽軍艦』に書かれていることですから、信じて下さい。善光寺さんへお参りに行く信仰と一緒です」と若いながらおっしゃっていました。

 以前は『甲陽軍艦』は武田氏の正史だと考えられていましたが、最近はもうそう考えている方はほとんどいらっしゃらないそうです。甲斐の武田家が滅んだ後、家康に仕えた武田氏の家臣が記したものですから、武田氏に都合の悪いことは書かれていなくても当然のことであろうと思います。

 上杉謙信と武田信玄が千曲川と犀川が合流する川中島で激突したのは天文二十二年(1553)でしたが、この時に、保科郷にいた保科家はどちらについたのか、あるいは既に保科郷を離れていたのかに関してはまったく判りません。ただ、かなり早い時期に保科郷を離れて、伊那谷に移っていたのではないかと小生は想っています。ですから、保科正之公の養曾祖父にあたる保科正俊の時に、保科郷を離れて伊那谷に移り、武田家と関係を持ったと考えています。武田勝頼が死んで、甲斐の武田家が滅亡したあと、それまでの関係から、武田家の家臣だった家々がが、保科家の家臣になっているように思えます。

 これは、『会津藩家世実紀』に出てくる人物の名前を調べてみて、想い描いたことでしかありませんが、そう考えると、伊那高遠に残っているキリシタンの痕跡と、武田家の領地だったところに残っているキリシタンの痕跡が似ていることも理解出来てきます。そして、越後にもキリシタンの痕跡が残っていることは、ネット上にも記されています。非常に興味深いものがあります。






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Last updated  2014.02.24 16:41:08
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