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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【旧高遠藩領内の転切支丹類族墓石】 これも旧高遠藩領内のとある村の墓地にあった転切支丹類族墓石です。戒名の一文字目が「一」で始まっています。そして、ここはとあるお堂の境内なのですが、お堂の参道には、「庚申」碑や「甲子」碑などが並べられています。やはり、「庚申」碑や「甲子」碑はキリシタンに関係していると、ここでも感じさせられました。 伊那谷でキリシタンが広まったのは、どんなに遅くとも16世紀の後半です。宗門人別制度=寺請制度=檀家制度は、影も形もない時代です。ですから、「仏教徒がお寺を離れてキリシタンになった」訳ではありません。そもそも、仏教徒とは僧侶のことで、戒名は亡くなられた方に付けられた名前ではなく、僧侶になる=戒を受ける時に付けられた名前です。 ですから、「戒を受ける」習慣のない、親鸞系の宗旨では「戒名」と言わずに「法名」といいます。そして、死者に戒名を付けることがお寺に義務付けられた時に、お寺を離れて庵を結んだ僧侶もいらっしゃったと聞いたことがあります。ですから、一般には通過儀礼と言われているイニシエーションの中で、死に関わるイニシエーションは、宗門人別制度施行以前のお寺では行われていませんでした。 「被差別民はお寺に入れてもらえなかったので、仕方なくキリシタンになった」と会津で何回か耳にしてきましたが、根も葉もない誤解です。会津の人々がキリシタンになったのは蒲生家が会津の領主・藩主だった時代です。宗門人別制度が施行されたのは、残されている史料からすると、保科正之公が会津藩主になられてからのことであると考えられます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.24 21:23:15
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