|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【伊那谷のキリシタン】 2010年7月18日に伊那谷のとあるお寺の墓地から、南方向を撮った写真です。天竜川右岸の岳々が見えていました。伊那谷は南北に長い谷ですが、谷の幅はかなり広いです。そして、上伊那郡と下伊那郡に分かれていましたが、小生が伊那谷を巡ってきた範囲では、上伊那郡にも下伊那郡にもキリシタンの痕跡が残っています。 しかし、<伊那谷 キリシタン>で検索しても、特定のテーマ以外にはほとんどヒットしてきません。それでも、実際に伊那谷を巡ってみたら、かなりの数のキリシタンの痕跡に出会ってきました。それらはここでもご紹介しているので、お解かりいただけるであろうと思います。 そして、京極高知が飯田城主だった時に高遠で洗礼を受けたことを考えれば、伊那谷全体がキリシタンになっていた可能性が非常に高いことは、すぐに考え付くことだと思います。そして、保科正光が何故、関が原の戦いの後、高遠に移封されることを願い出たのかも、彼が嫡子がいないにもかかわらず側室を持たなかったことと合わせて考えれば、答えは一つしかありまっせん。 そして、こうした情況を幕府は知らなかったとは到底考えられません。幕府の諜報活動はかなり明らかになっていますが、その中でも恐れられたのが「草(くさ)」と言われたスパイです。どこかからいつの間にか入ってきて、その土地に根付くスパイです。農耕を営んだり、商業をしたりして、ひっそりと暮らしていましたが、彼らは自分が「草」であることを絶対に悟られないようにしていました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.25 07:36:28
コメント(0) | コメントを書く |