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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【旧高遠藩領内の「百庚申」と不思議な石碑】 前述の祠の横に「百庚申」が並べられています。100基の「庚申」碑が建てられているのですが、左上の「庚申」碑には、この村の名前ではない村の名前が彫られていますが、その名前と同じ名前の村が会津にありますが、会津では非常に珍しい村の名前で、その村以外には同じ名前の村はありません。また、右上の「庚申」碑には下部の左右に姓名が彫られていますが、村の名前は彫られていません。この姓名の姓は、会津の近世史をご存じの方で知らない方はいらっしゃらないだろうと思います。 そして、祠の裏に左下の石碑があり、右下の「観音講供養」と彫られた石碑は、道路脇にありました。「天」年号が彫られていますが、「観音講」が供養の対象になっている非常に珍しいものだと思います。どういう理由で、「観音講」を供養したのでしょうか。 旧高遠藩領内には不思議な石碑が数多くあります。そもそも、庚申の年に庚申碑を建てる習慣が非常に気になります。そして、こうした「庚申」碑を村ではなく、個人が建てているということも不思議なことです。そして、左下の石碑からすると、修験道が広がっていたように思えますが、高遠石工に関する本を読むと、かなり多くの村に修験がいたことが確認されているようです。 そして、『会津藩家世実紀』にある記録からすると、会津にも修験道が広がっていて、修験が村々にいたことを窺い知ることが出来ます。ここでも何回か記していますが、そうした修験を代々継承してきた家々が、会津には現在も残っています。『会津藩家世実紀』の中から宗教に関する記録を抽出して、それらを並べて、「巳待」と彫られている石塔や石碑を考えると、保科正之公が会津に移封されて以来、こうした情況が続いていたことが判ります。 ※明日は所用で外出します。帰って来られるのは夕方以降になると思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.27 20:51:41
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