|
カテゴリ:キリシタン
【伊那谷の風景】 会津のキリシタンを考える時に、伊那高遠を中心とした旧高遠藩領内を考えることなくして、理解することは不可能であろうと小生は考えていますが、会津のキリシタンのことを研究し始めたときからそう考えていたわけではありません。伊那高遠だけでなく、旧高遠藩領内の出来るだけ広範囲を訪ね、そこに残っているモノやコトを見たり聞いたりしてきました。 同時に、『高遠町誌』を手に入れることが出来たり、高遠藩の歴史に関する文献も手に入れて、それに眼を通しました。そして、旧高遠藩領内に残っている不思議なモノやコトを解決することが出来ました。特に、宗門人別制度が施行されるまでは、仏教寺院は一般民衆の死に関わるイニシエーションを行っておらず、死者に法名・戒名を付けることもしませんでした。 宗門人別制度が施行される以前になくなった人物に法名や戒名が付けられていることがありますが、それは後の時代になって付けられたのであろうとしか考えられません。そして、ごく最近になって、ある神道の研究家の先生から、神道が葬儀をするようになったのは、もっと後の時代だということをお伺いしました。 では一体、保科正之公のご葬儀はどのように行われたのか、あるいは服部安休はどのような祝詞を唱えたのか‥‥‥これに関しては、『会津藩家世実紀』はまったく沈黙しています。そして、もうかなり以前に、服部安休の子孫がどのような職業を選んだかを聞いていましたから、これまで会津のキリシタンに関して調べ続けてきた結果からすると、「答えは一つしかない」と考えるようになりました。そして、それが小生の会津のキリシタンに関する研究の結論でもあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.28 20:44:44
コメント(0) | コメントを書く |