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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【高遠石工とキリシタン】 「高遠石工とキリシタン」と題して論文を書くためには、かなりの量のデータを集めなくては書けないだろうと思えますが、しかし、室町時代末期から江戸時代初期の高遠のキリシタンの歴史を考え、高遠石工が高遠の出身者であることを考えると、答えは自ずから見えてきます。 京極高知が飯田領6万石の領主になったのは、文禄二年(1593)野子とでした。そして、この飯田城主であった時に、京極高知は高遠で洗礼をうけているとされています。つまり、この時代には高遠が伊那谷の拠点であったということ、言い換えれば、高遠に宣教師会の支部のようなものがあって、そこで洗礼を受けていると言うことであろうと考えられます。 ですから、京極高知が飯田城主になった時には既に、伊那谷が全体がキリシタンになっていたと考えれば、伊那谷に残っているキリシタンの痕跡を理解することが出来ます。このブログでもかなりの数の、伊那谷や旧高遠藩領内に残っているキリシタンの痕跡をご紹介してきました。そして、ここではご紹介してきませんでしたが、少なくとも旧高遠藩領内には、会津に伝わっている珍しい文化があります。 ここで少し、それに関するモノの写真をご紹介しているので、伊那高遠香具師の周辺にお住まいの方はお気付きになられているかと思いますし、それが残っているところを訪ねたことがあるとおっしゃっていた方が、伊那谷にいらっしゃいました。この3枚の写真は、旧高遠藩領内にある、とある村の墓地で撮った写真です。写真のファイルナンバーはここでは明らかにしていませんが、この3枚は連続しています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.01 08:24:18
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