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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【信州のキリシタン】 前述までのモノが残っている一帯にある、お寺の庭に建てられていた宝篋印塔ですが、上の写真に写っている塔身らしき部分の左側の面に彫られた文字列を撮った写真が下の写真です。「宝暦七丁丑天」と彫られています。しかし、真ん中には「宝篋印」「陀羅尼」と並べて彫られていて、その下に「塔」と彫られています。 不思議な宝篋印塔です。本来の宝篋印塔には「宝篋印塔」と塔身の部分に彫られません。また、笠の部分が宝篋印塔のそれとは形がまったく異なります。それでいて、最上部の九輪は確かに輪が九つ彫られています。お寺のご住職に、この宝篋印塔のことについてお尋ねしようと思って庫裡を訪ねたらお留守でした。 宝暦七年は1757年です。会津では、この宝暦年間まではキリシタンが公然と活動していたことを示すモノが、とある愛宕神社に残っています。蒲生氏郷の家臣団が帰農している会津で、そう簡単キリシタンが消えるはずがないと思い続けて、会津を巡り歩いたいたことが、やっと役に立ち始めています。 そして、旧高遠藩領内から保科正之公と共に山形最上経由で会津に入って来た家々が確認できる村にも、はっきりとしたキリシタンの痕跡が残っていますし、「巳待塔」が残っています。京極高知が飯田城主だった時に、キリシタンの拠点だった高遠から移住してくれば、当然、キリシタンの痕跡が残っていても不思議ではありません。保科正之公が会津藩主になられた時には既に、会津で宗門人別制度が施行されていたと考えさせられる記録は残っていません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.01 16:42:49
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