|
テーマ:会津の風景(427)
カテゴリ:キリシタン
【奥会津の冬景色】 前回の続きです。沢沿いに村々が点在していますが、この一帯は比較的新しく成立した村が多いです。そのことには、史料のデータベースを造った時に気が付いていたのですが、伊那谷を巡り歩いて、やっとその理由が判りました。しかし、会津の史料には、そのことはまったく記されていません。ただ、残されているコトやモノははっきりとそれを示しています。 そして、この一帯も何回か訪ねているのですが、その時に感じたことが、今になってその理由がはっきりしてきました。文字で書き残された史料だけが、歴史を解明できるわけではないことを、つくづくと実感させられています。 やはり、保科正之公はキリシタンを庇護していらっしゃいました。そしてその後も、会津藩は同じようにキリシタンを庇護しています。「転切支丹移住開墾政策」はその典型であろうと思われます。開墾に必要な水を確保するために、会津藩は堰を造っています。こうした堰は『新編会津風土記』に記されているケースもありますし、『新編会津風土記』には記されていないケースもあります。 こうした歴史の実態が見えてくると、『会津鑑』が何故、完成と同時にお城の御文庫に入れられ、書き損じや下書きをすべて焼却するように命じられたかも見えてきます。『会津鑑』は藩士が編纂した風土記なのですが、かなりの数の巻が欠損しています。戊辰戦争の後で消えたのか、戊辰戦争の前に既に消えていたのかは判りません。残っているのは、明治期になって写本されたものだけです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.02 16:17:52
コメント(0) | コメントを書く |