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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【史料の解析】 これは以前にここでご紹介したことがある写真です。これは前述の谷に建てられていると連絡して下さった方がいらっしゃいました。これは道路脇に建てられているのですが、小生はそれまでに何回もこの道路を通っていました。それでも、早速ここへ出掛けてみたら、教えられた通りの案内柱が建てられていました。 しかしこれからだけでは、結論を出しようがないなと思って、この左奥にある墓地をもう一度訪ねてから、帰ろうと思って車を走らせたら、道路脇で草刈りをしている方がいらっしゃったので、車を止めてお話をお伺いしたら、この案内柱を建てられたご本人でした。 それで、一番肝心なことをお尋ねしたら、この村がキリシタンだったことを失態草津を詳しく話して下さいました。その内容を記すことは出来ませんが、間違いないと思える内容でした。そして、会津キリシタン研究所へ帰って、データベースをもう一度確認したのですが、データベースもその方のお話の内容と矛盾しません。 ただ、この案内柱にある「その昔八十戸の隠れキリシタンの集落だった」のは保科正之公が会津藩主になられた頃のことであろうと思われます。『新編会津風土記』にある家数はもっと少ないのですが、転切支丹移住開墾政策で、この村を離れた家々がかなりあったのであろうと思われます。因みに、この村の名前を『寛文風土記』(1666)に見付けることが出来ません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.03 16:36:48
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