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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【中通りの「四体仏」と「三体仏」】 前述までの墓石がある墓地にあった、舟形光背に4体の像と3体の像が彫られた石仏ですが、この「四体仏」が非常に気になります。日本では古くから、「四」は「死」と読みが同じことから、タブーとされることが普通に行われていました。「四天王」という天部の像がありますが、あれはインドの仏教から中国経由で伝わったもので、「四」をタブーにするのは日本だけです。 こうした4体の像が彫られた石仏が、保科家が保科姓を名乗り始めたと言われている、長野市若穂保科=保科郷にある観音堂の境内に残っています。2003年の秋に、伯父の一周忌で信州を訪ねた時、伯母と従姉の娘を連れて、保科郷へドライブに出掛けました。そして、馬頭観音と思われる像が4体彫られた石仏と、同じ像が3体彫られた石仏がありました。 長野市中心部から保科郷まで、車で30分程度で行くことが出来ますから、長野市へ出掛けられたら、是非、保科郷の観音堂や、真言宗と曹洞宗と浄土宗のお寺がありますから、お時間を作って是非、ゆっくりと巡ってみて下さい。そして、お時間があったら、小布施町の穴観音を是非訪ねてみて下さい。 この曹洞宗のお寺の開基は、保科弾正忠正利であると説明板に記されていますが、「正俊」の間違いであろうと思われます。小生には、この保科正俊の時代に保科郷を出て、伊那谷に移動しているように見えています。この保科正俊の子が、保科正之公の養祖父・保科正直で、弟の内藤昌月の名前が、高遠史に出てきます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.05 11:42:35
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