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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津藩城代家老 田中正玄】 田中三郎兵衛正玄(まさはる)は、父親が幕府の江戸金山奉行だった関係であろうと思われますが、佐渡で慶長十八年(1613)に生まれています。保科正之公がお生まれになったのは元和三年(1617)ですから、保科正之公よりも五歳したということになりますが、将軍家光が亡くなったあと、将軍家綱の後見役として江戸の会津藩邸にいらっしゃった保科正之公に、寛永四年(1627)から仕えていました。この寛永四年にはまだ、保科正之公は高遠藩主になられていません。 しかし、その後高遠藩主になあられていた保科正之公が山形最上へ移封された時には、当然のこととして、保科正之公と共に山形最上へ田中正玄も移っています。そして、寛永二十年に保科正之が山形最上から会津へ移封された時にも、保科正之公と共に会津に移り、会津藩の城代家老として、保科正之公の絶大なる信頼を受けていた人物です。そして、寛文十二年五月廿八日に亡くなっているのですが、何故かここに埋葬されています。 そして、実に不思議なことなのですが、寛文十二年には既に、会津藩では宗門人別制度が施行されているのですが、墓石には戒名が彫られていません。確かに、土津神社に合祀されているのですが、田中正玄が亡くなった時には、まだ保科正之公はご健在でした。「武士だから、神道だ」とお考えの方もいらっしゃるかと思いますが、神道史の研究家の方に確認したのですが、この時代には神道は葬儀を執り行っていないとのことでした。 保科正之公が亡くなられたのは同じ寛文十二年です。そして、服部安休によって神道式の葬儀が行われたと『会津藩家世実紀』に記録があるのですが、その記録の部分を、その神道研究家の方がお読みになりたいとのことで、コピーしてお送りしました。先日、東京でお会いしたのですが、非常に驚かれていました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.07 10:46:40
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