|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の不思議な石祠】 これは、地元の方が「キリシタン」と呼んでいる所にあった石祠です。屋根の部分は右側が前で、左側が後ろだったように見えます。つまり、片流れ造りの屋根であったように思えますが、この破風の部分がこのように彫られている石祠は、数はそれほど多くありませんが、会津でいくつか見付けました。 十字架が3本、並べられています。こうしたものをご覧になると、景教のものだとおっしゃる方がいますが、可能性は極めて低いと考えざるを得ません。こうした石祠が彫られるようになったのは、そこまで古い時代ではありません。そして、景教が日本のどこまで北上したかに関しては、明確に出きる史料はないと聞いています。 そして、景教はネストリウス派だから異端だとされる方もいらっしゃいますが、小生は歴史研究では正統か異端かを問題にしません。史実をもとめる前に、正統か異端かを判断したら、史実はまったく見えなくなってしまいます。そもそも、ネストリウスが異端であるとされたのは西暦431年のエフェソ会議においてです。そして、それがインドから現在の中国に入り、唐の都・長安で盛んになったとされていますが、ネストリウス派が異端とされた大きな理由の一つに、聖母マリアを「神の母」と呼ぶことに反対したからです。多くのプロテスタント教会でも、聖母マリアを「神の母」とは呼びません。 そして何よりも、長安から日本に景教が伝わった時代に、現在この一帯にある村々が存在していたとは考えにくいです。それよりは、キリシタンのものである可能性の方がはるかに高いです。ここから車で15分以内のところに、何体もの「子安観音」像が残っています。そして、この一帯は、明治期に「廃仏毀釈で神道請になっている」と何回も聞かされました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.07 16:54:22
コメント(0) | コメントを書く |