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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【伊那高遠の「双体道祖神」】 前述の「双体道祖神」が並べられているところを撮った写真です。一番奥の石碑には「甲子」と彫られています。その手前から、「庚申」碑、「大黒天」碑、「双体道祖神」、「庚申」碑、「庚申」碑と並べられています。 こうしたものを並べる時に、皆さんはどのように並べられるでしょうか。重要な意味を持ったものを端に並べられるでしょうか。小生は、「双体道祖神」と「大黒天」碑の左右に2基ずつ「庚申」碑や「甲子」碑を並べたように思えます。 保科正之公が高遠藩主になられたのは、寛永八年(1631)のことでした。この年になって、幕府は「新寺建立禁止令」を発布しています。宗門人別制度はまだ影も形もありません。それだけではありません。長崎奉行が長崎に出立する時に渡される「下知状」に、「伴天連の入国禁止」は記されていません。これが記されるようになったのは、寛永10年(1633)にことで、これ以降、正月明けに長崎へ出立する長崎奉行に渡される「下知状」に、「伴天連の入国禁止」が記されるようになりました。ただし、寛永十四年には、将軍の具合が悪く、謁見が行われなかったので「下知状」は出されていません。翌年の正月は「島原の乱」が続いていたので、長崎奉行は江戸に戻っていなかったので、この年も「下知状」は出されていません。 そうしたことを保科正之公は、高遠藩主としてすべて知っていたであろうと思われますが、寛永十三年(1636)に山形最上へ移封され、この時に旧高遠藩領内から3000人の農民を武士に取り立てて、山形最上へ移住させていますが、この時にもまだ、幕府から宗門人別制度の施行命令は出されていません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.13 13:43:06
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