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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【伊那高遠の「双体道祖神」】 これは2009年10月22日に、伊那高遠のある村の入口にあった石碑列です。下の写真は「蠶玉神」と彫られた石碑の左側にある「双体道祖神」を撮った写真です。この「双体道祖神」は旅装束ではありません。ただ、彫られている像の顔などがかなり風化していて、男女であるかどうかもはっきりしません。 残念なことなのですが、こうした「双体道祖神」がいつ彫られたものか彫られていないので、年代順に並べて考えることが出来ません。ただ、こうした「双体道祖神」は、山梨県から茅野市や富士見町にも残っています。また、千曲川流域にも残っています。そして、伊那谷のかなり広範囲にも残っていますし、松本平の南部と南西部にも残っています。それらの中にはここでご紹介したものもあります。 ところで、保科正之公が徳川第二代将軍秀忠の子であることはほぼ間違いないと考えられますが、幕府の記録では保科正光の嫡子になっているということを読んだことがあります。何かの史料を参照して書いたのであろうと思われますが、出典は記されていませんでした。この保科正之公は幕府の中で特別扱いされていることが判る記録が、『会津藩家世実紀』に残っています。それが、江戸時代にあっては一般的には考えられないことなので、非常に気になっていたのですが、こうした「双体道祖神」が保科正之公が高遠藩主だった時代にも彫られていたと考えると、その気になる記録を理解することが出来ます。 それだけではありません。『会津藩家世実紀』に記されている、まったく別の記録に関する疑問も、完璧なまでに解決することが出来ます。そして、フィールドワークから帰ってきて、撮った写真を確認していると、もっと深いところまで見えてきたこともありました。やはり、保科正之公はキリシタンを庇護していたようです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.13 14:54:24
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