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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【伊那高遠の石仏・石像・石碑】 この9枚の写真は、2009年5月19日に伊那高遠の、とある村にある薬師堂の横に並べられていた石仏や石像や石碑です。3.には「太子塔」と彫られています。4.には「太子供養塔」と彫られています。 2.は一度首が落とされています。伊那谷にもこうした首無し石像が残っていますが、伊那谷のとあるお寺の方は、首が落とされのがいつ頃のことかご存じでした。石像だけでなく、石仏が首のところから切断されている被破壊石仏も、伊那谷にも確実に残っています。会津では、首無し地蔵が圧倒的に多いです。首が落とされていない地蔵菩薩石像を見付けることは、なかなか難しいです。そして、この薬師堂にも「大黒神」「庚申」「甲子」と彫られた石碑がありましたが、9.の「甲子」碑には「昭和五十九年」と彫られています。 この「太子塔」と彫られた石碑と「太子供養塔」と彫られた石碑が非常に気になります。それは、『会津藩家世実紀』には「太子寺宗」とされ、『新編会津風土記』では「太子守宗」とされている宗教の記録があるのですが、この「太子」が聖徳太子であると確定できるだけの記録はありません。(「寺」の崩し字と「守」の崩し字が酷似しているので、それぞれが出版された時に、「寺」と「守」にそれぞれ統一されたのであろうと思われます。) この村も保科正光の時代から戊辰戦争まで、間違いなく高遠藩領内だったところです。この写真を撮った時、この近くの道を走っていて、偶然、この薬師堂に出会いましたが、この「太子塔」碑と「太子供養塔」碑に出会って、この「太子」と「太子寺宗」「太子守宗」の太子が示している人物は同じではないかと思いはじめました。そして、誰かがキリストを「太子」と書いて隠すことを考えたのであろうと思いはじめました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.13 21:31:03
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