|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【穴山家の墓】 前述の能見(のうけん)城趾からそれほど離れていないところにあるお寺の裏山に、上の写真のような墓域があります。歴代住職の墓石も並んでいますが、その奥に韮崎市教育委員会が建てた「穴山家の墓」と書かれた案内柱が建てられています。中心にあるのは比較的大きな宝篋印塔ですが、真ん中の写真や下の写真の十字墓も建てられています。 特に、真ん中の写真の十字墓の中には石仏が祀られています。おそらく、どちらの十字墓も高遠石工の作品であろうと思われますが、中に祀られているのは石仏ですから、仏像ではないと考えられます。ただ、会津では石で彫られた像が正面に祀られている観音堂もありますが、あれも観音菩薩像であるとは言えないだろうと小生は考えています。 仏像は、それなりの準備をした仏師が、木を彫ったものです。御本尊が石で彫られた像であるお寺には、まだ出会ったことがありませんし、これからも出会うことはないであろうと思っています。そして下の写真の十字墓ですが、比較的大きな十字墓で、十字墓に典型的な紋様が彫られています。「Χ(ギリシア文字のキー)」はキリストの頭文字です。 お静の方と幸松を預かったのは、穴山梅雪の妻だった見性院です。そして、徳川秀忠は見性院を江戸城の北の丸に建てていました。そして、幸松が成長したので、見性院は幸松を保科正光の養子にと進言したのですが、保科正光がキリシタンであった可能性は非常に高いと小生は考えています。嫡子がいないにもかかわらず、側室を迎えていませんし、家臣がそれを進言したということも、高遠藩の歴史に関する文献に出てきていません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.14 21:23:25
コメント(0) | コメントを書く |