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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【伊那谷の十字墓】 転切支丹本人同前の仏僧・丹瑞が処刑されるまで住職だった常圓寺の墓地にあった十字墓です。現在の伊那市全域は、保科正光が高遠藩主になってから、戊辰戦争まで、高遠藩領でした。このことは、高遠藩史に関する文献で確認することが出来ます。そして、京極高知が飯田城主だったのは関ヶ原の戦いまでで、それ以降の高遠藩主は保科正光でした。この保科正光もキリシタンであった可能性が非常に高いことは、ここで何回も記してきました。 ですから、関ヶ原の戦いが終わって、保科正光が高遠への移封を家康に願い出た理由も見えてきます。保科家が保科郷を離れて伊那谷へ動いたのがいつ頃のことだったかは判りませんが、保科郷にもキリシタンの痕跡が残っていることは事実です。ですから、保科郷にあるお宅には、それに関する伝承が残っているだろうと小生は考えています。また、少し横道にそれますが、保科正光の妻は、真田昌幸の娘で、佐久平から上田平までの一帯にもキリシタンの痕跡が残っていることは、2003年にあの一帯を巡った時に見付けてきています。 もう少し暖かくなったら、上田市真田町一帯を少し丹念に巡ってきたいと思っています。保科正光と真田昌幸の娘が結婚した時には、宗門人別制度は影も形もありません。ネット上で、かなり検索してみたのですが、上田市真田町にも気になるモノがあるようです。そして、海野宿からも、中国から入ってきた、磁器製の「子安観音」像が残っていたそうです。 キリシタンに関するモノやコトを探し歩いていると、中学や高校で習ったキリシタン史に大きな疑問を持たざるを得ません。『高遠町誌 下巻』にある高遠の民俗の中にも、不思議なコトがあります。当然、その習慣は会津にも残っていますし、小生は亡母の実家で経験したことがあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.20 11:54:07
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