|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【伊那谷の石碑】 「庚申」碑と「甲子」碑は、とある村の道路脇に石碑が集められているところにあった中の2基です。昭和五十五年は1980年ですから庚申の年ですし、大正十三年は1924年で甲子の年です。ただ、この写真を撮ったのは、2007年8月27日で、旧高遠藩領内に庚申の年に「庚申」碑をたて、甲子の年に「甲子」碑を建てる習慣があるということを知り得ませんでした。「聖徳皇太子」碑は、翌日に訪ねたお寺の本堂の裏に建てられていたものです。このお寺の本堂は大きな観音堂です。また、境内には三十三観音石仏が2組、三十四観音石仏が1組並べられていました。 ただ、この「庚申」碑と「甲子」碑に彫られている村名が非常に気になったのですが、あの時にはそれを会津と結びつけることは出来ませんでした。しかし現在は、会津のとある村々と結びつけられると考えています。伊那谷にお住まいの方で、この「庚申」碑と「甲子」碑が建てられている場所をご存じの方は、国土地理院の地形図で会津をじっくり探してみて下さい。同じような名前の村があることにお気付きになられるだろうと思います。1979年か1980年に、小生が最初に十字墓に出会った村です。 そして、あの墓地を何回も訪ねていますが、あの墓地にある十字墓や双体仏などは、確実に高遠石工の作品であろうと考えています。あの墓地がある村は、『寛文風土記』(1666)にも『新編会津風土記』(1809)にも名前が出てきますが、『文禄三年蒲生家高目録』(1594)には名前を見付けることが出来ません。保科正之公が会津藩主になられたのは、寛永二十年(1643)のことです。 宗門人別制度の施行命令が幕府から出されたのは寛永十六年(1639)のことですから、保科正之公は山形最上藩主で、会津藩主は加藤明成の時です。そして、史料などから考えると、加藤明成の時代に会津で宗門人別制度が施行された形跡はありません。そして何よりも、保科正之公の最大の政策は、新田開墾政策で、城下の商業の育成も行われています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.20 14:18:46
コメント(0) | コメントを書く |