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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【伊那高遠の木地師の村跡】 国土地理院の地形図を見ていて気になった村があり、それが木地師の村で、既に全村が離村していると知って、2009年10月22日に出掛けたのですが、村への入口を見付けることが出来ず、かなり奥まで行ってしまって、そこで工事していた方にお伺いして、引き返してきました。 これはその木地師の村跡で撮った写真です。建物の痕跡はまったく残っていませんが、国土地理院の地形図には家の記号がいくつも記されています。そして、小生が調べた範囲では、この木地師の村が離村したのは、それほど古い時代ではないようです。 会津のキリシタンを考える時に、会津の木地師の村を考えることなく通り過ぎることは出来ません。特に、ある村には「『木地師は小椋姓を名乗るように」と保科正之公がおっしゃった。」という伝承が残っている村がありました。その村も既に全村が離村していますが、墓地には墓石がそのまま残っているので訪ねてきましたが、一つ判らないことがあって気になっていたのですが、ある方からその村のことをお伺いして、疑問が消えました。 やはり、会津には蒲生時代のキリシタンと加藤時代のキリシタンとそして保科正之公と共に会津に入って来たキリシタンがいたようです。これは、残されているモノ以上にはっきりとした記録が『会津藩家世実紀』に残っています。それを『会津藩家世実紀』に見付けた時には、半信半疑だったのですが、とある村の墓地にあった墓誌を読んで、確信を持つことが出来ました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.21 16:37:57
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