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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【伊那高遠の木地師の村跡】 保科松平会津藩には、正規の武士集団の他に、影の技術者集団がいたのであろうと小生は考えています。影の集団ですから、記録に残ることはありません。勿論、極秘事項でしたから、重臣の中でもそのことを知っている人々はごく一部であったと思われます。ですから、戊辰戦争の時の伝承にも残らなかったのであろうと思われます。 高等数学と科学技術を身に付けた集団です。しかも、保科正之公はそうした集団をすべて伊那谷から連れ出して、山形最上経由で会津に連れてきたのであろうと思われます。一つは、堰を造る技術者集団です。彼らは、幾何学を身に付けていたのであろうと思われます。そして、もう一つは、黒色火薬を作る技術者集団です。この技術は飛弾高山にもあったと聞いています。 これらの二つの知識や技術は、日本で考え出されたものではありません。ローマが栄えたのは、上水道の開削と道路の整備です。当然のこととして、キリシタンの線教師はそれを知っていたであろうと考えられますし、イエズス会には軍人だった人物がいました。典型はイグナチウス・ロヨラです。そして、井上筑後守政重の下屋敷=キリシタン屋敷で、転んだ宣教師が高等数学を研究していました。これを明らかにしている論文が出版されているのですが、会津に置いてきたので書名は会津に帰ってからここに記します。 確かに、加藤時代にも堰の開削は行われていましたが、最後まで完成することが出来ませんでした。しかし、保科正経の時代に長大な籍を開削することによって、会津のかなり広大な地域一帯で米作が可能になっていることは、『会津キリシタン研究II』で明らかにしています。その堰の歩いていけるところを見てきたのですが、所々に非常に高度な流体力学を知っている人物が設計したとしか思えない個所があります。小生は、間違いなく江戸時代にあった木地師の村で、『新編会津風土記』にその記録がない木地師の村々はそうした技術者集団であったのではないかと考えています。宗門人別制度に組み入れられているにもかかわらず、『新編会津風土記』に記録がないということは、『新編会津風土記』の編纂者がそれらの村々を隠したとしか思えません。 ※写真は、前述の木地師の村跡へ自動車道(未舗装)から降りていく入口にあった石積みですが、車の窓から見たら最初は五輪塔に見えました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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