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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【高遠城趾】 高遠城趾の絵図ですが、「現在位置」と書かれているところにあった案内板にあったものを写真に撮ってきました。多少、画像処理して鮮明にしてあります。現在は「武家屋敷」と「勘助曲輪」の間にある空堀が埋められていて、広大な駐車場になっています。 また、堀はすべて空堀ですがかなり深い堀で、土手の斜面を登ることは難しかったであろうと思われます。そうした意味では、室町時代の典型的な山城であると言えるであろうと思われます。この城の縄張り(設計)をしたのは、武田家の家臣の山本勘助であるとされています。また、ここでもご紹介しましたが、伊那市街地にも春日城趾という城跡があるのですが、そこにある堀も空堀ですが、東側は天竜川が形成したと思われる河岸段丘になっています。 京極高知が飯田城主だった時にキリシタンの拠点だった高遠の城に、キリシタン出会った可能性が非常に高い保科正直と正光が入って来たわけですから、この城の中にも、城主とその家族のための礼拝堂があったと考えられます。16世紀のヨーロッパの領主の館には、そうした礼拝堂がありましたし、有名なルターはそうした礼拝堂にいた司祭でした。ですから、蒲生氏郷が鶴ヶ城の天守閣を築いた時に、本丸の中に礼拝堂を建てたことは十分に考えられますし、戊辰戦争のあと、七日町通りの阿弥陀寺に払い下げられた御三階は、間違いなく蒲生氏郷とその家族のための礼拝堂であったと考えられます。 そして、『新編会津風土記』はあの御三階に関して沈黙しています。戊辰戦争の時に、本丸御殿が野戦病院になっていたので、殿様と重臣があそこで「秘密の会議をした」とされていますが、蒲生氏郷が秘密の会議をするために、あの建物を建てたとは到底考えられませんし、キリシタン大名の城に礼拝堂があったケースは少なくありません。そして、そこで毎日御ミサを捧げるための司祭が本丸御殿に出入りするところも、その跡が残っています。鶴ヶ城の本丸と二之丸を、是非、じっくりと歩いてみて下さい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.22 06:59:55
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